『メッセージ』(Arrival)★★★※CULT

名作『コンタクト』がジョディ・フォスターの知性的ムードによって5割増しの説得力を勝ち得たように、今作のエイミー・アダムスもまた7割は説得力を底上げしている。
今やハリウッドの一翼を大きく担う存在になったドュニ・ヴィルヌーヴ監督。前作『ボーダーライン』では、メキシコ麻薬戦争という題材を借りながら、実際には「個人の物語」をギッスギスのザラついたタッチで描き切っていました。一転して「未知の来訪者とのコンタクト」という、教科書に選ばれてもおかしくないようなSFである今作でも、実はやはり「個人の物語」を繊細で静謐なタッチでもって描いています。
とはいえ、ドュニ監督の本質的な作家性というのは、やはりその「物語る手法」にこそ宿っているように思えますし、その「手法」そのものが作品のモチーフと不可分であるところが極めて「純粋な作家精神」とでもいいましょうか。
さらに加えて、今作においてはその「手法」そのものが、更に踏み込んで作品全体の根幹を形成しているので性質が悪いといいますか(褒めてます)。
<以下ネタバレなしでは感想が書けないので未見の方はご注意(長いですw)>
映画を映画足らしめている表現技法としてもっとも重要なテクニックに「モンタージュ(編集)」があります。
詳しく書くと文字数がいくらあっても足りませんが、簡単に言うと「2人の男女が話しているシーン」で「話している男のカット」の次に「話している女性のカット」にポンと切り替わるやつ。これが「カットバック」という近代映画では基本の基本になるモンタージュです。実は人間の視覚も同様の処理が脳内で行われています。映画で言うところの「1カット処理」のように思っている方も多いと思いますが、実際には脳みその中で「モンタージュ」が行われています。左から右に視線を動かすとき、実際には脳の中でその中間の「パンニング(カメラを横に振る事)」の映像は省かれています。もっと生理的なことに例えると「瞬き」をしていると考えればいいわけです。
誤解を恐れずに書くと、つまるところ「映画文法」という言葉は「モンタージュ」とほぼ同義と考えて差し支えないです。逆に言えば「モンタージュ」のみが映画でしか再現できない演出技法なのです。実際には「カメラワーク」もここに含まれます。
「映画は時間の芸術」とよく言われますが、この言葉の側面の一つとして、そのものズバリ「時間軸=時制」をコントロールすることも可能です。これも「モンタージュ」の中で行われます。
サイレント映画の時代ではシーンの間にテロップが入ることで時間のジャンプや場面の転換を表現していましたが、すぐに観客はこの「映画文法」に適応して、映像そのものから「時間の推移」や「場面転換」を「推知」することができるようになりました。
ところが、「時間は未来へ進む」という現実世界の法則をコントロールするのにはいくらかの説明技法が必要でした。
一番人口に膾炙したものが「波イフェクト」です。
いわゆる「そうだ、あの時わたしは……」という現在のカットと過去のカットをグニャグニャという波打つようなイフェクトでディゾルブ(重ねて)つなぐモンタージュです。今これをやるとほぼギャグになってしまうような古典的手法です。
この「時制のコントロール」という「映画文法」に革新をもたらしたのは黒澤明監督の『羅生門』です。
ここでは「羅生門の下で雨宿りしている登場人物」が「検非違使で証言」したことを「回想」で話すわけですが、なんと恐ろしいことに「検非違使での証言の中でも『事件のときの回想』を話すわけです。「現在」「過去」「過去の中の過去」という大きく分けて3つの時間軸を描きながら、しかもそれぞれが「主観に基づく幾つかのパターン」でも描いていきます。書いていたら頭がおかしくなるような構造ですが、その構造そのものが「物語のテーマ」に直結しているのがポイントなのです。そして、この『羅生門』が革新的だったのは、その「回想」への入り方の手法に「ありとあらゆる」テクニックを総動員していることでしょう。
例えば証言する多襄丸が「俺はあの日」といった途端、突然夕日をバックに馬を走らせる多襄丸のカットを「インサート」してまた検非違使での多襄丸に戻るとか、証言する人間にカメラがスーッとドリーで寄っていき、過去の映像にカットで切り替わるなどです。
ここで重要なのは先述の「波イフェクト」などを一切使用せず、「連続した未来への時間」の時と同様に「カット」で繋いでいくことでも「回想」を表現できるということを実証してみせたことです。
話が長くなりましたので省略すると、この手法を逆手に取ることもできるわけです。観客は「連続した時間軸」と思いこんでいるところへ、「実はさっきのシーンは過去でした」ということを後で開陳するというトリック的表現も可能になりました。これは映画文法が観客の頭に組み込まれているからです。
そして、2004年。ひとりの鼻眼鏡野郎がここでまた革新を起こします。
有名なテレビドラマ『LOST』シリーズです。
このドラマ、飛行機事故で孤島に漂着した乗組員を描く(一応)サバイバル物なのですが、なんと全編に渡って「次のシーン」のように登場人物たちの過去のエピソードを挿入してきたんですね。当然「舞台が島」じゃないシーンですから、観ている方も「回想」だってことはすぐに分かるわけです。これは「同じ時間軸の島以外のシーンを描かないことで謎が謎を呼ぶ」というストーリー上の足かせから生まれた、まさに瓢箪から駒のようなアイデアです。「だったら回想すりゃいいだろ」という。
これが現在では「フラッシュバック」と名付けられ、ごく一般的な映像文法として人口に膾炙されました。時折説明的にそれこそフラッシュを焚くときのように「バシュ!」みたいな音をつけて回想を挿入したりするからです。それも現代ではほとんど無くなり、観ている方は自然に「ああ、これは回想だな」と解釈できるようになりました。
というわけで、話が長くなりましたが、今作『メッセージ』です。
冒頭からエイミー・アダムス演じる主人公の女性に子どもが生まれてからその子が病気で亡くなるまでの映像が小刻みに何度も何度も挿入されていきます。先述の「フラッシュバック」と呼ばれる技法ですね。観ている方もエイミー・アダムスの表情を「勝手に」(ここ極めて重要)「子どもを失った喪失感」と感じます。これがこの映画の肝であり、「モンタージュ理論」の最大のポイントな一つなわけです。
大昔のエイゼンシュテインという映画監督が実践した映画文法ですが、簡単に言うと
A料理の盛られたお皿→B男の顔
というモンタージュですと、観客は「ああ、こいつは腹が減っているんだな」と思います。
次に
C棺桶に入った女の子の映像→B男の顔
だと、観客は「ああ、娘が死んで悲しんでいるんだな」と思います。
ここで、重要なのはBの映像はまったく同じ映像ということです。観客が勝手に男の映像に感情を付与してしまうわけです。これがエイゼンシュテインのモンタージュ理論です。
論より証拠。とくとご覧あれ。
『メッセージ』はこのモンタージュ理論と、先述した「フラッシュバック」の手法が観客に受け入れらたことを逆手に取って、なんと「そのフラッシュバックだと思っていた映像は、未来の映像でした! つまり『フラッシュ・フォワード』だった!」という映画文法を使ったトリックだったわけです。トリックと言うと言葉がよくないのですが、観客を引っ掛けているわけですから間違いではないですよね。
そして、このトリック=映画文法が、そのままこの『メッセージ』という映画のテーマにも直結していますし、極めてSF的な「話法」として絶大な効果を上げているのがポイントです。
もちろんやったもん勝ちという話ではあるんですが、やはりこの全編に漂う鬱々としたルックスや映像も含めて観客を殺しにかかっているという意味では、ドゥニ監督大勝利! という感じでしょうか。
しかも、さらに凄いなと思うのは「してやられた!」的な爽快な感じではなく、物語の根幹に関わるところなので、「感動」しちゃうってところでしょうね。こんなに凄まじいトリックなのに、それが「トリックのためのトリックではない」というところが衝撃的といいますか。
「物語のための物語る手法としての最適解」なんですね。
様々な感情が「映画の中や外」とから一点に収斂していく構造は、「なんてこった……」という感動を呼び起こさせてくれます。
実際のところ観ている間は、薄暗い画面の連続や辛気臭い展開に何度も眠気を誘発させられたりするあたりも含めて、「ああ、『2001年宇宙の旅』とかが話題にあがるのはそういうわけなのかw」と腑に落ちるような映画ですから、全人類におすすめというタイプの映画ではないんですけどね。それでも、やはりこの「どんでん返し」のカタルシスと感動には拍手せざるを得ないわけです。
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