『ドリーム』(Hidden Figures)★★★1/2※CULT

三者三様の現状打破をカタルシスたっぷりに描いたシナリオと演出が最高。演じた3人も常にうちに秘めた葛藤や(怒りや)や諦めなどを的確に表現。憎まれ役の白人女性代表のキルスティン・ダンストもやっとそのツラに見合った役を絶妙に演じています。我らがシェルドンことジム・パーソンズもこれまた「現実のシェルドン」ともいうべき憎まれ役をアノ調子で演じております。
アメリカで公開されてからすぐさま評判を呼び、今や遅しと待ち望んでいた『ドリーム』が遂に日本公開。
当時の(まあ現在でも続いていますが)有色人種や女性に対する差別と蔑視に立ち向かう主人公たちの、胸のすくような密かな大活躍を描いている本作。評判を聴きつけたエンタメ好きにとっては、当然「胸のすくような大活躍」の部分に注視していたことは言うまでもない。
誤解を恐れずに書くなら、「差別問題」やそういったテーマは現代では「ありふれた」ものといってもいいからだ。
では、その「胸のすくような大活躍」はどうだったのか?
はい。
激燃え!
そう、燃えなのだ。
所謂「燃える」というエンタメ最大の要素にも、様々な種類のものがある。「土砂降りの中でハチマキを巻く」から「トラックの下をくぐり抜けて運転席に戻る」などなど。そんなフィジカルな燃えもあれば、「碁盤に石を置く」から「バーで暗号解読の決定的なヒントを掴みガタっと立ち上がる」というメンタルな燃えまで、世のエンタメの歴史はこの積み重ねと発明の歴史だ。
とはいえ、フィジカルな燃えに関しては、ソレ目的に特化した「アクション映画」などなどのカテゴライズが確立されているし、送り手と受け手の間にそれほどの齟齬は生じ難くなっている。
「なあんか、銃でバンバン撃ち合うような映画観ってえなあ」
と思えば、いくらでもそういった映画の情報は集められる(ツタヤのアクション映画の棚に行けばたいてい揃っている)。
「ちょっと、すんげえカーアクション観てえなあ」
と思えば、『ボーン・スプレマシー』を観ればいいという具合だ。
クライマックスの映画史に残るカーアクションは壮絶の一語。
一方。
問題は後者だ。
便宜上「メンタル燃え」としておくが、これは情報が伝わりにくい上に、カテゴライズも殆ど行われていないことが現状だ。
例えば、近年随一の「メンタル燃え」を体験できる作品である、カンバーバッチ主演の『イミテーション・ゲーム』にしても、相当な手練ならそういった「メンタル燃え」を嗅ぎつけることは容易だが(エニグマですよ!エニグマ!!)、実際には所謂「感動系ドラマ」なカテゴライズがなされているし、事実本編も超感動作なのだから始末に負えない。
とはいえ、そういった「メンタル燃え」を欲してやまない人間。『機動警察パトレイバー劇場版』で久保商店の二階で繰り広げられる「HOSに仕組まれたコンピュータウィルスの解析」みたいなやつが観たい! という欲望を望んでいる人間には堪えられない作品でもあるのだ。
日本が世界に誇る「メンタル燃え」の塊のような二作。おっさんとおばさんとおっさんが3人で首都高を車で走るだけでこれだけ燃える作品もあるまい。
しかし、ツタヤで『機動警察パトレイバー劇場版』と『イミテーション・ゲーム』が同じ棚に並ぶことはない。
つまり、要するに、こういった「メンタル燃え」は期待している人間や渇望している人間も多いにも関わらず、「え! アレもそうなの!」という隠された要素であることが多いのだ。
そう。この映画の原題「Hidden Figures」のように。(華麗に決まった)
話を戻すと。
この作品にとって、当然「黒人差別」「女性蔑視」などなどの要素は大きなテーマだし、それこそそのテーマに関わる部分の深い悲しみや言いようのない憤りもしっかりと描かれている。ましてや「メンタル燃え」の部分もソレを抜きにしては「燃えも半減」というぐらいの不可分なものであるところが素晴らしいのだが、実際この手のドラマ的方向性の作品では「これぐらいでいいだろう」というロウソクのような「ともしび」程度になりがちなのだ。
ところがこの作品。
前半こそ弓を引き絞るようにそうった「差別」や「蔑視」の部分がこってりと描かれるが、いよいよ後半の「密かな大活躍」が描かれる段になると、「これだ! こういうのだよ!!」と「メンタル燃え」好き野郎たちが拍手喝采のシーンが連続する。
例えばエンジニア志望でその才能も有り余っている主人公の一人メアリーが、明らかな「差別思想」によって規定された資格の取得条件のため、白人のための高校に入学許可を得ようとする場面。ここで、メアリーは許可を出す気が鼻からなさそうな判事を「説き伏せる」のだ。
ここの演出プランは完全にアクション映画などの「フィジカル燃え」とほぼ同様の演出法で展開しており、感動的とも受け取れるシーンになっているにも関わらず、世に数多いるであろう「隠れメンタル燃え好き」にとっては、「キタ!!」と。そもそも強大な相手に対して口先だけで(語弊はあるがw)戦いを挑み、なおかつ勝ち負けではなく「正義」の心でそれを成し遂げる興奮ですよ。外に出たメアリーが人目を憚れず興奮の歓声をあげるシーンの「燃え」ですよ。
そして、極めつけはやはりメインの主人公である「計算のキャサリン」が、会議の席でいよいよ「計算」を披露するクライマックス。
そこまでに積み重ねられた「差別」と「蔑視」の集合体とも言える本陣に遂に乗り込んだキャサリン。ケビン・コストナー扮するハリソンから白いチョークを受け取って、並み居る巨大な集団を自分の天分である「計算」によってねじ伏せるこの「燃え」
物語の冒頭。幼いキャサリンがやはり教師から白いチョークを渡されて、教室の全員(教師も含めて)の度肝を抜いたシーンのリフレインだ。この「白いチョーク」に託された意味を読むことも十分興味深いのだが、ここではやはり「燃え」の方法論だ。
このシークエンスでキャサリンは非常に難解であろう計算を黒板にガリガリガリガリと書き連ねていく。
ここも当然「フィジカル燃え」と同じ方法論で演出されている。「アクション」と「リアクション」の交差法だ。
「アクション」=「撃ちまくられるマシンガン」=「黒板にガリガリ書かれる計算式」
「リアクション」=「吹っ飛ぶ敵、粉砕する壁や木」=「憮然とし飲まれる会議室の面々」
これを一体化することで「燃え」を観客の心に形作っているのだ。
リズムやカメラワークも殆ど同様であることが比較すれば一目瞭然のはず。
「フィジカル燃え」にしろ「メンタル燃え」にしろ、「そこに至る導線(シナリオ上の意味付け)」が重要なことは言うまでもないが、やはりそのシーンそのものの巧みな「見せ方=語り口」がもっとも重要であることは論を俟たない。
今作はこの「演出」が大変優れているのだ。
ゆえに、「メンタル燃え」が大好物の意識の高い映画野郎たちは何をおいても観るべきだし、「フィジカル燃え」だったら親の葬式でもサボって観に行くようなボンクラたちも是非観ておくべき作品なのだ。
映画に必要なのは「うおお!」であり、それの正体は「燃え」だ。
追伸。ケビン・コストナーがバールのようなものを振り回す最高のシーンもあるのでお見逃しなきよう。
デヴィッド・フィンチャー監督が放った21世紀最高の「メンタル燃え」映画二本。サンダルのまま雪の中に走り出してしまうこと請け合いの燃えが充満しているし、ダイナーでただ話すだけで「燃え」たい人はすぐにでも観るべし。
電話という「メンタル燃え」に必須アイテムを縦横無尽に活躍させる傑作。電話で話すシーンで相手側を写す映画に憤りを感じている意識の高い人は必見。
脚本のアーロン・ソーキンが己の「メンタル燃え」スキルのすべてを叩きつけたような超大作。会場でキャラとキャラがただ話すだけなのにここまで燃えるのか!「みんな動くな!」
クライマックスのサリエリとモーツァルトの口述記譜のシークエンスは「メンタル燃え」のすべてが詰まったような激燃えシーンだ。「見せてくれ!」
上述の『大統領の陰謀』の影響を色濃く受けた上で、その会話アクションをそれこそグリーングラスばりのカメラワークと編集で描いた傑作。クライマックスの「ひそひそと密謀を企てる」シーンの燃えは凄まじい。