(500)文字ではとても収まらないレビュー『パトリオット・デイ』★★★1/2※CULT「大学の寮で友達と廊下を歩いていたら目の前に特殊部隊!そんな燃えるような状況が楽しめる意識の高い連中は必見の傑作!」

『パトリオット・デイ』(Patriots Day)★★★1/2※CULT

ハズレ無し男ジョン・グッドマンでつかみ、ベーコンで昂ぶらせ、J.K.シモンズでトドメを刺す。全員殺傷能力100%MAXの人間デストロイヤーズが、観客をうわまわる1200%の殺意で完膚なきまでに叩きのめしにくる!!!

映画界のネタ不足は今に始まったことではないが、近年は「続編」「アメコミ」「リ・イマジネーション」といったリサイクル操業が一際目立つようになってきた。そんなエコキュートなネタ探しの中でも、昔から一定の需要が見込める題材として「真実に基づく」ネタがある。

傑作『バタリアン』の冒頭にクソ真面目なテロップで観客に明示されて爆笑を産んだ「これは真実の物語に基づく」というアレだ。

『タイタニック』の超メガヒット以降、「真実に基づく」産業は膨張を続け、21世紀の現在では、予告で「実話」の二文字が踊らぬ日はないという状況。

そんな神聖なフィクションの世界を土足で踏みにじる、安直な「真実に基づく」映画にうんざりしている昨今。それでも何十本に一本は「真実に基づく」甲斐のある傑作が生まれるのも事実。

そんな中、”ツゥナミヴゥイ!”と共にフィクションのなんたるかを世界に知らしめた『バトルシップ』で男を上げたピーター・バーグ監督。

得意分野であると思われていた「真実に基づく」映画の一環として作った『ディープ・ウォーター・ホライズン(バーニングなんとか)』だが、それでまさかのバトルシップ資産をすべて溶かす大失態。そんな記憶も覚めやらぬたった数ヶ月後、立て続けに「もう一発真実に基づきます」と、まさかの泣きの一作を持ってきたから困った!

こちらとしては、「おまえもう真実に基づかなくていいから、おとなしくバトルシッピングしてブリトーでも盗ませてろよ」と、総会屋よろしくバーグカンパニーの株主総会をコロがす覚悟で臨んだ初日。

これがまさかのまさかのストップ高!

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 進退窮まったピーター・バーグが己の引き出しを全部ぶちまけた!

『パトリオット・デイ』は記憶にも新しい「ボストンマラソン爆弾テロ事件」を題材にした「真実に基づく」映画の一本である。ゲスな見方をすれば「記憶の新しいうちにとっとと映画にしちまえ」という見世物小屋根性の生み出した企画にすぎない。しかし、イーストウッドの『ハドソン川の奇跡』しかり、少し前だがグリーングラスの『ユナイテッド93』しかり、「真実に基づいただけでは終わらない傑作」が幾つか生み出されているのも事実だ。

筆者の個人的な考えでは、「フィクション」には「事実」に抗う力がある。

よくあるくうだらない「真実に基づく映画」の失敗の要因は「真実に基づいていれば放っておいても観客の心を動かせる」だろうという慢心である。事実、「真実」にはそれだけの力があるので、それだけで成立してしまっている映画も数多い。

だが、本当にすごい映画は【真実を極上のフィクションを生み出す素材とみなした】作品である。

もっと勝手な解釈に基づけば、「真実に基づいてるんだから」という大義名分のもと、フィクションなら怒られるようなことを遠慮なく「やっちまえ精神」で作っている映画だ。

前回の記事にも書いた、キャメロンの『タイタニック』が良い例だ。キャメロンは「タイタニック沈没事故」を綿密に調べ上げて、「事故を完全再現する」という大義名分のもと、真実に基づいて、ありとあらゆる人間のパニックや死に様をリアルタイムに徹底的に描き、フィクションでも思いつかないような”船が直立して真っ二つに折れる”というようなダイナミックかつ、血沸き肉踊らざるをえないビジュアルを思う存分観客に叩きつけた。

そして、残虐帝王スピルバーグも、フィクションで散々叩かれてしまう「本来の持ち味である血の気の引くような残虐描写」を、「戦争映画」という真実に基づいた大義名分のもと、思う存分全編血の雨を振らせた。

前作『バーニング・オーシャン』が「真実に基づいて」いるのに駄作になった原因は、ピーター・バーグが得意とする「ミリタリー要素」が欠けていたからだということが、本作を観ると嫌というほど分かる。翻っていうと、「警察」「爆弾」「特殊部隊」「テロ」こういった一連の要素が、面白いほどバーグの個性を見事に引き出してしまった。

そして、自分でも『ディープ・ウォーター・ホライズン』はやっちまったなと感じること大だったであろうバーグにしても、「これだけ俺の好みの具材が揃っているんだから、最高の料理が作れるはずだ!」と断定したに違いない。

しかも、「真実に基づく」という盤石の盛皿が目の前に広げられているのだから。

そもそも、この映画の偉いところは、「真実に基づく」映画のくせに、なんと

原案 ピーター・バーグ
マット・クック
ポール・タマシー
エリック・ジョンソン

というクレジットが出てくるのだ。

そう。これはあくまでも「真実に基づいた」フィクションなのだ。赤坂先生もうんざり口調で

「そうこれはフィクションです。なのでエンターテイメントとして楽しむことができます」

と言うに決まっている。

そして、バーグの持ち味中の持ち味である「ちゃんとしたマイケル・ベイ」が、遺憾なく発揮された上に、アクションシーン以外でも緊張感の全く途切れない粘着質な演出をやってのけてしまった。

ハズレ無しの男ジョン・グッドマンと、顔面サスペンスの二つ名に恥じないケヴィン・ベーコンが、がっぷり四つで緊張感の底上げを担う

ゼメキスの傑作『フライト』前後から、フラっと現れてはその場を全部さらっていってしまうような美味しい役どころを一手に担い、出てくるだけで凄味を漂わせる巨漢役者の第一人者ジョン・グッドマン。

真実に抗うには、それ相応の役者が必要だとばかりに、今作では「顔面・体型」だけで有無を言わせない力を持つ素材を適材適所に配置。

狂言回しはマーク・ウォールバーグに任せればいいとばかりに、全員が全員全力で観客を殺しにかかってくる絶品の存在感。

大混乱に陥った現場に車を連ねて現れる(完全にヤクザの登場の仕方)FBI捜査官ケヴィン・ベーコン。彼に対峙する警視総監のジョン・グッドマン。この2人のバランスによって、ウォールバーグの小回りが効く。この配役の妙。

「テロ映画」とは本来「テロ決行」をクライマックスとして描くのが定石だが、今作では前半で事件は起こる。序盤に『ディープ・ウォーター・ホライズン』の失敗に懲りずにまたぞろ、ウォールバーグ演じる主人公の刑事と奥さんのどうでもいい乳繰り合いがあった時には「またかよテメエ」状態であったが、なんとかそこは切り抜けてすぐにテロが勃発するのは正しい判断。当然「真実に基づく」パワーによって、事件そのもののパートは否が応でも緊張感は高まるわけだが、そこを「ツカミ」としてしまうのが今作の凄いところである。

ミスターFBI捜査官ケヴィン・ベーコンが、現場の指揮権をめぐる際に、「テロなら我々が指揮を執る」と言いつつ、「何言ってんの?! どう考えてもテロだろ!? 間違いねえだろ!?」とジョン・グッドマンたちに詰め寄られた途端、「軽はずみにテロだと断定すれば大騒ぎになって引っ込みがつかなくなるんだぞ!」と、どっち付かずの日和見教師のような態度で太鼓を叩き続けたかと思いきや、突然しゃがみ込んで爆発現場から爆弾の痕跡を発見すると、舌の根も乾かぬうちに

「これはテロだ」

と、断言

これを成立させてしまうのがベーコン・パワーだ。

全編正露丸に頼りっぱなしのようなストレスフルな顔面を充満させるベーコン。その大正製薬的キリキリ感に周りも感染してギスギス巻三割増の現場に。

一見派閥抗争のような無意味な泥沼劇が展開するのかと思いきや、皆が皆事態の深刻さに一直線にキリキリしている結果なので、その調査段階の緊迫感を観客に共有させる効果を生み出している。

中でも出色なのは、「事件現場を大きな倉庫に再現」しての「該当時刻のありとあらゆる動画」から犯人をあぶり出す追跡捜査シーン。実に現代的なサスペンス・ミステリーとして手に汗握り、大興奮させてくれる。

実はここがうまく出来たことがバーグの今作の成功のポイントではないかと思う。今までなら後半の得意分野に全力投球で、前半のこういった「静的」な見せ場を盛り上げることが出来なかったのではないかと。それほどこの「映像分析による犯人特定」シーンは盛り上がる。従来であればウォールバーグの言葉に対応した「過去の再現映像」をインサートする手法になるところを、現在では「監視カメラ」「スマホのカメラ」などの「実際の映像」として処理することができるので、ドキュメンタリックなルックスを維持し続けることに成功している。

満を持して炸裂するバーグ十八番の炸裂連弾サスペンス!

前半部分で維持し続けたサスペンスをそのまま維持し、後半一気に実行犯たちの逃亡と追跡劇に転調。「再現」によって「フィクションの中の入れ子構造」を作り出していた「静的」展開が一気に効果を発揮する。

これ見よがしに登場していた「事件の蚊帳の外にいた人々」が、突如「事件の当事者」として犯罪の渦中に叩き込まれてしまう。このあたりの「実は事件は地続きに起きているんだ」感が今作後半のキモであり、この作品をハイレベルにしているポイント。

「事件」を「客観視」していた事と、この「蚊帳の外にいた人々」とのシンクロが、後半での「俯瞰」から「当事者の目線」へ観客を見事にスライドさせている。これによって、今まで「対岸の火事」だと思って呑気にしていた観客の全身を、一気に緊張の縄で引き絞ってしまう。

まず、メルセデス・ベンツを自慢げにスマホで撮影しながら親に自慢していたアジア人青年ダン。事件が起きても「大変そうだね」と言った風に、完全に「他人事」気分で女性とデートしていたダン青年が、ガールフレンドにニコニコメールを打っていたところで、いきなり犯人たちに車ごと拉致される。ここからはもう観客は緊張のるつぼ。

全編緊張感みなぎる本作の中でも、随一の緊迫感を誇るのが、ガソリンスタンドでの脱出劇。この一連の「どうするどうするどうするどうする」「やめろやめろやめろやめろ」という観客の心臓を弄ぶカメラワークと冴え渡る編集の素晴らしさ。そして、いよいよ飛び出る、渾身の「ファッキューーーーー!」のカタルシス。

そこから一気に市街戦へのなだれ込む。もう、バーグにしてみたらあとは「やりたい放題やらせていだきます」という独壇場。遠慮もへったくれもないギチギチに隙きのない銃撃戦描写が延々炸裂。もうこのあたりの「ちゃんとしたマイケル・ベイ」「悪ふざけをしないリドリー・スコット」という次元の凄まじさは、『ヒート』のマイケル・マンや『プライベート・ライアン』のスピルバーグを追いかける近代映画作家の意地を感じさせてくれる。

コメディでも「わたしは素手で人を殺せる」と言い切るキャラを演じられる、「世界で一番クビと言われたい上司ナンバー1」のJ.K.シモンズ。『セッション』の鬼教師フレッチャーでアカデミー賞を受賞しても、マイペースに飄々とした役をやっていた布石がここにきて爆発。

前半部分で登場して、得意の飄々としたキャラを全面に押し出していたJ.K.シモンズが、事件の一報を聞くや、いよいよ「俺はフレッチャーだった!」と記憶喪失から回復。猛然とパトカーのハンドルを切ってのターンをキメ、地獄絵図の現場へ躊躇うことなく参戦。しかも、息を乱すことなく、ちょっと寒いからダウンでも着るかというような雰囲気で防弾チョッキを着用するや、素早く裏手に回ってからの冷静なコンバットシューティングを決める。ここでのJ.K.無双はエンターテイメント映画としての矜持を感じさせる最高の燃え展開を見せてくれる。なんと敵と真っ向から撃ち合いになりながらも、身を隠すこともなく冷静にマガジンを入れ替えて次々と撃ち合いを続けるストロングスタイルのガンアクション。防弾チョッキを着ているから避けるより当てるのが先決と言わんばかりの豪傑さ。

「爆弾はあるの?」

一大クライマックスといえるような物量と迫力を投入した大銃撃戦で幕を閉じるのかと思いきや、本作はもう一度前半の「静的」なテンションに移行する。このあたりの手綱さばきも今までのピーター・バーグからは考えられない手腕で、名作『プライド』などの大作監督ではなかった頃に戻ったとも言えるし、元々役者であった経歴から生まれる「芝居」にしたいしての信頼を取り戻したとも考えられる。

その「静的」なクライマックスを終盤で一気にかっさらうのが、ヒジャブのようなものを被った女性尋問官である。カンディ・アレキサンダーという人が演じているその尋問官は、名前さえ無く、おっとりとした口調で逮捕された「犯人の妻」に「爆弾はまだ残ってるの?」と何度も訊く。時折イスラム教の教義などを挟みながらも、何度も何度も「犯人の妻」に「爆弾はまだ残っているの?」と訊き続ける。そして、いつしかその声にドスが効きはじめて、明らかに恫喝の口調に変わる。それでもセリフは「爆弾はまだ残ってるの?」である。

このあたりは名作『マラソンマン』での拷問シーンを思い出せさせる。例の「安全かね?」だ。

結局「犯人の妻」は口を割らないという結論に達して彼女は引き上げるのだが、見送るケヴィン・ベーコンがセリフもなく呆然と佇むのみというところからも、なんとも形容のし難い凄味漂うシーンだ。実行犯が捕まっても、「テロ」は決して撲滅できないということを静かに淡々と描写しているわけだが、それを名前もつけてないキャラクターに突然担わせるあたりがなんとも今作らしい。

”主人公が片足を引きずる映画”の傑作がまたしても誕生!

前回の『ローガン』レビューで書いたばかりだと言うのに、またしても「主人公が片足を引きずる映画は傑作である」理論が実証された。

本作の主人公であり狂言回しとして現場には現れるが、結果的に矢面には立たないという、文字通り観客の代弁者でもあるマーク・ウォールバーグ。近年誰にも気づかれぬまま「ウォールバーグ祭り」が毎年開催されるほどの主演作を誇るが、ツタヤの棚にウォールバーグコーナーが設けられることは決して、無い。

問題を起こしたらしくて格下げされた巡査部長トミーを演じるマーク・ウォールバーグ。作品がヒットしてもさほど貢献したとは思われないが、失敗しても、特に彼のせいにもされないという、禅の境地に達しているかのような存在になりつつあるウォールバーグ。それもこれも「その顔を観ない日はないんじゃないか」と燃えるほど、絶え間なく出演作が続いている上に、『テッド』から『トランスフォーマー』に至るまで、「ああ、そういえばウォールバーグ主演だね」としか言いようのないポジショニングがそう思わせるのだろう。今まで「ウォールバーグの大ファン」という人間には、会ったことも聴いたこともない。

とはいえ、そういった役者は実際には大変重宝される。「ある一定の興行的なカラー」を作品に塗布できるからだ。いわゆる「看板を背負える」人という意味で。

今作でも、ウォールバーグは悪く言えば「いつものウォールバーグ」である。「マーク・ウォールバーガーショップでいつものマーク・ウォールバーガーを食べてビール飲んで、ちょっと仕事してくる」といったような極めてマイペースな「いつもの」感じだ。

そんなウォールバーグが、終盤で作品の緊張感を一旦途切れさせるように、淡々と「奥さんと病院に行った時の話」を語りだすシーン。

タイトルからして、アメリカの「愛国心」を「大義名分」に用いているように感じて鼻白むようなくだりだし、実際冗長とも言えるエピローグと合わせて、そう感じてしまうようなシーンでもあるが、ここで語られる「テロが防げるのか」という命題に対しての、アメリカの持つ明確な「解答」と、(是非はおいておくとして)その信念には胸を打たれるものがある。「真実に基づく」作品を作っている落とし前はちゃんとつけていると感じさせてくれるに足る名シーンだったと。

今作はウォールバーグが序盤で膝を怪我して全編「片足を引きずる」ことになるわけですが、観た人はもちろん分かるように、エピローグではこの事件で「片足を失った」人物が、義足を装着し、改めてマラソンに参加する。片足を引きずるようにゴールした先では、両足を無くした奥さんが待っていて彼を抱きしめる。

つまり、やはり「主人公が片足を引きずる映画」は傑作ということが実証されているわけだ。

【133分/シネマスコープサイズ/2Kマスター(イオンシネマ板橋9番スクリーンにて鑑賞)】

遂に日本版発売!

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