『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』★★

「実写を上回る、超現実的描写が可能なアニメなのに、イリュージョンが発生していないのは痛恨。
最初にお断りしておくと、筆者は劇場公開時以来のオリジナル版信奉者です。なので、この作品を「単独の作品として観る」事が可能な立場ではありません。
加えて、製作会社のシャフト、あるいは総監督の新房昭之監督についても、深く語れる口ももっておりません。
『魔法少女まどか☆マギカ』『化物語』を観ている程度です。
なので、本来あまり褒められたレビューではありませんが、「オリジナル版信奉者」としての比較を中心とした感想になってしまうことをご了承いただきたい。
結論から書いてしまうと
「これ? リメイクする意味あったの?」
というのが正直な感想です。
まあ、昨今「リビルド」だの「リ・イマジネーション」だのと御託を並べては古今東西を問わず過去の作品を焼き直すのは一つの潮流と言ってもいいですし、個人的にはソレに対して否定的な意見は殆ど持っていません。
なぜならリメイクが作られることによって、オリジナル版への注目が集まることは喜ばしいことですし、その作品が「隠れた名作」だったりした場合に再評価につながる可能性も生まれてきます。某スター戦争とかのように「オリジナル版に直接手を加えて、あまつさえオリジナル版を封印する」という暴挙に至るよりはよほどマシです。
では、
リメイク作品としての評価軸はどういうものなのでしょう。
これも十人十色意見はバラバラでしょうが、個人的には「オリジナル版への敬意」と「オリジナル版の骨の部分をハズさない」ということではないでしょうか。
話を戻して今回の『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』
オリジナル版は今や伝説と言っても差し支えのないような生まれ方をした岩井俊二監督の「テレビ作品」です。
この作品に関しては以前記事を書いているので宜しければ御覧ください。
さて、上述の記事でも書いてたように、オリジナル版の「骨」の部分とは何でしょう。これも当然受け手によって様々な捉え方があるはずですが、オリジナル版『打ち上げ花火』の「骨」は
「小学生の夏休み」
なのではなでしょうか。
オリジナルの監督であり今作で「原作者」としてクレジットされている岩井俊二は、ノベライズのあとがきでこう書いています。
「小学生が駆け落ちする物語だった」
事程左様に、オリジナル版『打ち上げ花火』の「骨」は
「小学生の物語」
に他ならないと思うわけです。
コレは当然、作者のあとがきを読むまでもなく、あの作品のファンすべての総意だと思います。
「小学生だから」
尊いんですよ。儚いんですよ。ワクワクするんですよ。
映画、ましてやテレビドラマのような製作条件の厳しい環境において、「メインキャラクターを小学生にする」なんて常識ハズレも甚だしいですし、ましてや「大人たちは完全に脇役」に過ぎないのも前代未聞です。そういった製作上の理由から当時(そして現在も)「メインキャラクターが小学生」という実写作品は皆無と言っていいでしょう。
もちろんそれだけがオリジナル作品の素晴らしさのすべてではありませんが、原作者の創作動機の第一歩であり、なおかつ「リスク」の高さを考えても真っ先に「変更」を余儀なくされるであろう部分を、完成品に至るまで固執し続けたポイントであります。
したがって、オリジナルを愛している人間にとって、「外してはならない骨」の部分を「改変」してしまっている今回のリメイク版(具体的な年齢や学年には言及していないにせよ小学生には見えない)は、「別物」であると断言します。
例えて言うなら「ショッピングモールに閉じこもらない『ゾンビ』のリメイクがあったら、それは『ゾンビ』のリメイクといえるのか?」ということです。
「骨」
というのはそういうことですよ。
こういったリメイク作品の評価において必ずつきまとう、「いや、そこをあえて外すということのチャレンジなんじゃないでしょうか」問題は、つまるところ「いや、じゃあ、それはオマージュでいいじゃない?」ってことですよ。
今作のようにタイトルすらそのまま使用しているリメイク作品において、「そこは変えちゃダメだろう」という一点において今作は、オリジナル信奉者にとっては「語るに値しない」作品です。
とは言うものの、結局のところ「むっちゃくちゃ面白かった!」ならアレコレこういう文句は不問になるわけで、つまるところ「むっちゃくちゃ面白い」わけじゃないということですよね。
観月ありさのくだりを変更しなかった妙なこだわりは評価したいと思いますが。