(500)文字のレビュー『散歩する侵略者』★★★「黒沢清は散歩する宇宙戦争の夢をみるのか?」

『散歩する侵略者』★★★

すぐキレて一方的に仕事を放棄して電話を切る社会人失格の桜井を嬉々として演じている長谷川博己さん。ゴジラから東京を守ったとは思えない薄弱ぶりだが、それでいて奇妙な人間味と温かさを持ったキャラを超好演。飲み干した飲み物のカップをちゃんとゴミ箱に捨てるモラリスト。

たいてい「何かの終わり」を描き続けてきた黒沢清監督が、実は結構ストレートに「終わりの始まり」を描いた今作。とは言え、タイトルからも分かるように、全体的に奇妙でコミカルなタッチでの「宇宙人による侵略」が描かれる。『トワイライト・ゾーン』や『怪奇大作戦』などのTVシリーズの一話のようなプロットではあるものの、その宇宙人たちの言動の「噛み合わなさ」や「カジュアルな狂気」(と傍からは見える)突然のバイオレンスなどなど、そこはやはり黒沢清印がそこかしこに押印されている。

今作の面白いところは、メジャー系映画としての公開形態を前提としているキャスティングなども含め、従来の黒沢清監督作品にまとわりつく「恐怖」は意識的に非常に薄めにされている点だ(とは言っても、意識的にカッチリ入ってくるモブや、照明による演劇的描写などは健在)。なによりご自慢の「カーテン」「ビニールの幕」などがない(よね?)。このことからもハッキリと方向性はエンターテイメントに徹していることが分かる。なにより、オリジナルの演劇からしてそうなのだろう「ユーモア」が全編終始ハズレ無しに挿入されているのが頼もしい。何しろそこかしこでクッスクス笑いが漏れてしまうほどだ。中でも長谷川博己がどんどん「非現実」な世界に引きずり込まれてながらも正常であらんとしていたり、かといえば仲間意識まで芽生える展開はやったらと楽しいし引き込まれる。彼の芝居と存在感の賜物だろう。

しかも、一方の長澤まさみと松田龍平組の「噛み合わない」言動と、それゆえに浮かび上がる安らぎと愛情などは感動すら覚えるほど。「夫婦」という概念のカリカチュアライズとも言えるあの2人のシークエンスは、一定以上の年齢の人たちや人間関係を経験した人間なら笑い泣き必至だろう。

そして、なにより驚いたのはクライマックスの銃撃戦の「サウンド・イフェクト」が非常に素晴らしかったことだ。黒沢清監督の従来の作品では(意図的だろうが)銃の音が乾いて軽いサウンドだったのが、エンターテイメントでございますと宣言するかのようにド迫力で身体に突き刺さってくる。これには唸らされた。

あ、序盤の玄関から引きずり込まれるおばあさんもお約束として。

高橋洋が脚本に参加したWOWOWでのスピンオフ『予兆』は、第一話のみの鑑賞とは言えバキバキの黒沢清監督作品になっているので、あちらでそちらの欲求はまかなっているからこそ、劇場版での本作ではここまでストレートに楽しい作品に仕上げることが出来たのかもと思える。

【129分/シネマスコープ・サイズ/2Kマスター】

・・・

スポンサーリンク
スポンサーリンク

突然だがスピルバーグほど後続の創作者たちに大なり小なり影響や悔しさを残し続けている作家もそうはいないだろう。

スピルバーグ以降の世界に生きる創作者と、それ以前に生きてきたその者たちとは歴然としたハンディがあるといっても過言ではない。

そんなスピルバーグが21世紀に入ってもなお「やらかしやがった」案件として名高い映画が『宇宙戦争』だ。

世間が「スター・ウォーズ・サガ完結だ!」と盛り上がっていた2005年夏。もう皆は忘れかけているかもしれないが、当時確かにスター・ウォーズサガは完結という触れ込みだったのだ。

そんな夏。

つまりサマームービーシーズン真っ只中。当然スピルバーグもブロックバスター映画を生み出した男(所謂ブロックバスター映画という興行形態を生み出したのはかの『ジョーズ』なのだ)として、ごく普通に、それこそ夏休みの「トム」映画として雇われ監督のようなノリで『宇宙戦争』を生み出した。

言わずと知れた古典SFの傑作であり「侵略」SFの嚆矢でもあるH・G・ウェルズの傑作を現代を舞台のアメリカに置き換えて再映画化したのだ。

企画はまあありがち、主演がトム・クルーズという点や、飛ぶ鳥を落とす勢いだった子役のダコタ・ファニングが出演ときたら、明朗快活なインデペンデンスな作品を期待した映画興行界。

しかも、同時期には泣く子も黙るスター・ウォーズサガ完結編である『シスの復讐』が公開するのだから、どう転んでも大丈夫ですよという穏やかな雰囲気の中「そいつ」は公開された。

結果的にスピルバーグはいつもの「大ヒット作品」(ただし、超特大ヒットではない)として数字は残し、同時期に公開された『ミュンヘン』を相変わらずの「気持ちの悪い」映画に仕上げるというマイ・ペースぶりを見せつけた2005年だった。

が、

この『宇宙戦争』

スピルバーグがまたしても同業者の首筋に刀を突きつけるような作品になってしまった。

「ポスト9.11」

というべき映画はハリウッドに大量に生まれたが、ここまで「その恐怖」をエンターテイメントのオブラートに包んで(包みきれていない箇所も多い)観客に叩きつけた作品もなく。もっと言えば、フィクションが現実に抗う力を持つことをマザマザと見せつけることに成功してしまった映画であった。

それから12年。

「世界の終わり」「人類の終わり」「文明の終わり」様々な形で色々な終わりを描いてきた黒沢清監督。今作『散歩する侵略者』では日本のある地方都市を舞台に、同じく「人類の終わり」としての【侵略】を描くにあたって、事態が大きく動き出す中盤(それでも結局は地方都市のゴタゴタの雰囲気を保っているのが素晴らしい)にあたり、先述の『宇宙戦争』で、スピルバーグの盟友ジョン・ウィリアムズが作った音楽のフレーズを流してきた。

原作となる舞台の初演も2005年10月というのも偶然ではないだろう。

『宇宙戦争』が明確に「人類を駆逐するための侵略」を描いていたのと同様、今作も明確に(実際に宇宙人たちが公言しているしw)「侵略」がテーマなのだ。

では、「侵略」とは何かという定義は長くなるので省くとして、『宇宙戦争』の宇宙人たちが突然トライポッドで暴れだすよりも以前。その「先鋒」とも言える今作の3人の宇宙人の活動は、実際にはスピルバーグの『E.T.』や『未知との遭遇』にも似た「人間と他の知的存在」のファーストコンタクト物として機能しているのがカウンターのようで大変興味深い。とはいえ、あくまでも地方都市の一角で起こっている事象が「侵略」への第一歩であるあたりに、クスクスとした笑いの裏に冷え冷えとした感覚を生み出している。

現在の日本が正にそれをなぞるかのような状況に陥っているのも非常に不気味で、Jアラームが鳴ろうが核実験が間近で行われようが、実際に火の粉が降りかかるまでは一切信じることもないし肌感覚で恐怖を感じることもなくなっているのだ。

これこそフィクションの勝利と言えるだろう。

怖い黒沢清監督作品ならこの映画にトドメを刺す。とにかく異常に怖い。

スポンサーリンク
スポンサーリンク