【特集】映画の中の添え物ヒロインは、いかにして泣き叫ぶのをやめて立ち向かいようになったか。

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男でも女でもどっちでもいい主人公像の時代

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が実に象徴的でしたが、アクション映画やサスペンス映画やSF映画といった俗に言う【ジャンル映画】の主人公が女性になることが増えてきています。もちろん21世紀に入ってから、最近流行りの「ポリティカル・コレクトネス」といったような、「差別的表現をなくそう」→「ジェンダー論」といったような流れを踏まえた上で、今まで「無意識に男性を前提として描かれる主人公」を「別に女性でもいいよね」ということになっているわけです。『フォースの覚醒』で言えば、要するに主人公の「レイ」は「女性でも男性でも成立する」ということがポイントでした(まあ、シリーズが続いていく上でどうなるかは分かりませんが)。

続く『マッド・マックス怒りのデス・ロード』においても、主人公はトム・ハーディー演じるマックスですが、物語を引っ張る実質的な主人公はシャーリーズ・セロン演じるフュリオサ大隊長です。そして、フィリオサ大隊長もやはり「女性」である必然性はまったくありませんでした。

そういったわけで、21世紀になってから(まだ全体とは言い難いとは言え)「女性がジャンル映画の主人公になる」事が特別視されなくなったように思います。

では、この潮流はどこから始まったのでしょうか?

実際には映画界の女性たちの(役者もスタッフも含めて)血と汗によって拓かれた道であることは明々白々なのですが、ジャンル映画史でエポックメイキングは何だったのかと問われれば殆どの人がこう答えるでしょう。

「そりゃ、ジェームズ・キャメロンの性癖の賜物でしょう」

と。

とにかく強い女性が大好きなんだ!

女性の権利向上とか、そういった御大層な御託は間違いなく全く考えていないはず。ただただ「戦う女性が大好き!」というピュアソウルが時代とマッチした偶然の幸福。

本人がなんと言おうが、ジェームズ・キャメロンは監督デビュー作の『殺人魚フライングキラー』から一貫して、「女性主人公が男性主人公のように戦う」というキャラクター創造術をメインウエポンとして映画を作っていることは明白です。実際問題『殺人魚フライングキラー』はキャメロンの映画の骨子がすでに完璧に出来上がっている映画です。完成版ではプロデューサーから散々いじり倒された事によって雑な部分も多々見られる作品になっていますが、離婚直後の女性主人公、元旦那(ランス・ヘンリクセン)、言いよってきた若い男(軍の情報員)、彼らを向こうに回してフライングキラーに立ち向かうクライマックス、沈没船内のダクトを逃げ回る展開など、後のキャメロン作品の原型を見ることができます。

その後の「キャメロンヒロイン」についてここで長々と書く気はありません。ここでは2つのポイントにしぼります。

まず、『ターミネーター』でリンダ・ハミルトンが演じたサラ・コナー。

『ターミネーター』のヒロインであるサラ・コナーは、続編の『T2』でビルドアップした肉体と不屈の精神の印象が非常に強く、「キャメロンヒロイン」の代名詞のように思われますが、この一作目では、類型的なスラッシャー映画のヒロインの枠を大きく外れるようなことはありません。気弱で奥手の普通の女子大生という記号的なキャラクターです。そんな、サラが終盤、スラッシャー映画の定石通り殺人鬼(機)に追われる過程で逆襲に転じるわけですが、そのちょっと前に、実はサラが怪我をした王子様のカイルを、横転した車の中から引きずり出し、突如叱咤鼓舞して立ち上がらせます。自覚していなかった人類の救世主の母として目覚めるわけですね。つまり、「泣き叫んでる場合じゃない」と、今までの類型的なスクリーミングキャラから脱却した瞬間でした。

では、サラが初めて「泣き叫ぶのを止めて立ち向かうことを選んだ」女性ヒロインなのかというと、それよりも先行する先輩が何人かいるわけですね。

まず、キャメロンが続編で「戦うヒロイン」を文字通り映画史に叩きつけた名作『エイリアン2』で大活躍したリプリー。彼女もまた一作目の『エイリアン』ですでに「泣き叫ぶのを止めて立ち向かうことを選んだ」スクリーミングヒロインの元祖ではないでしょうか。

リプリーのユニークなところは、彼女が(宇宙船の)二等航海士という肩書を持っていることでしょう。そもそもダン・オバノンのオリジナルシナリオでは女性は登場しなかったところを、「ホラー映画に女が出ないなんてンなバカな!」という会社側の低能な(だが、実に真っ当な)理屈で変更されているだけに、彼女は責任感も強く鼻っ柱も強いキャラとして行動していきます。そもそもが『悪魔のいけにえ』から脈々と続くスラッシャー映画のスクリーミング・キャラとは根本的に違っていたわけですね。それでも一作目では基本的に常に逃げ回ることしかできず(まあ、相手がアレでは無理もありませんが)、やっとのことで脱出艇で生き延びる。ここまではスラッシャー映画のスクリーミング・キャラと同一線上に立っていたわけですが、なんとここでまさかの絶体絶命に陥り、そこでいよいよ「泣き叫ぶのを止めて」お星様に祈りながらアイツと退治する行動を選ぶんですね。

このリプリーの登場以降、1980年代に突入したジャンル映画の中に幾つかの化学反応が起こり始めます。

まず、80年代一大ホラー映画ブームの先駆けとなった『13日の金曜日』

この作品以降、最終的に殺人鬼に立ち向かうヒロイン像が確立されていったと見るのが正しいでしょう。

そして、ホラー映画以外のジャンル映画においても、80年代には少なからず革命の種火は起こりつつありました。

そしてカレン・ブラックへと道は続いていく

1980年公開の本作では、主人公のグロリアが「最初からタフ」というのが特徴で、実はこういった「タフな女性」が主人公になるにも一連の地道な流れがあるというのが、今回の特集のもう一つの流れでもあります。

いよいよハードボイルドな世界にも女性進出かと思われたわけですが、実際にはこのあとスタローン&シュワルツェネッガーの両巨頭による一大マッチョイズムがジャンル映画を席巻することになり、この火はあっという間に吹き消されてしまいました。

では、この「タフな女性」というキャラクター。ジャンル映画の中では、ジェームズ・キャメロンと並ぶ重要人物、ジョン・カーペンターがここで登場することになります。

ジョン・カーペンターは「タフ」の代名詞のようなキャラクターであるスネーク・プリスケンを登場させると同時に、監獄島ニューヨークにてもう一人のキャラクターを登場させます。それがエイドリアン・バーボー演じるマギーです。外も中もタフネス偏差値200超えの野郎どもが跋扈するニューヨークにおいて、唯一スネークが一目置く存在として頼りにする女性。それがマギーなのです。

クライマックス、恋人が死んでしまったマギーにスネークは言います、「奴は死んだ。来るんだ」と。ところが、マギーは黙ってスネークに拳銃をよこすように手を差し伸ばす。スネークはそこで一言も言わずに黙って自分の最後の武器である拳銃をためらうことなく投げ渡す。この血液沸騰間違い無しの「漢」ブリ。2人の性別も友情も超えた「分かってるぜ」感!!

そして、ジョン・カーペンターは1976年に今作の原型とも言える傑作『要塞警察』でも、この「男と女を超えた漢同士の絆」を熱く静かに描いているのです。

スネーク・プリスケンの原型とも言えるアンチ・ヒーローの代名詞「ナポレオン・ウィルソン」。名前がもう勝率10割の豪腕ぶりですが、この作品でもまたジョン・カーペンターは「タフな女性」を登場させています。女性事務員のリーです。出会うはずのない犯罪者ナポレオン・ウィルソンと、事務員のリーですが、殺人集団に取り囲まれて警察署に籠城するというシチュエーションで意気投合。しかも、その関係は常に「以心伝心」。銃で撃たれても悲鳴すら上げずに耐えるリーと、それに応えて敵を倒すナポレオン・ウィルソン。

ナポレオン・ウィルソンが会うやつに常に訊いて回る「タバコあるかい?」という台詞に、無言で自分のタバコを差し出すリー。「マッチは?」と言われて、もちろん無言でマッチを擦るリー。並大抵の野郎では太刀打ち不可能な名シーン。

しかも、この『ニューヨーク1997』と『要塞警察』の2大キャラ! なんと日本語吹き替えだとそれぞれ「青野武」「此島愛子さん」の2人が声をアテているんですよ! 日本語吹き替え版を作った人はこの二作の関係性を完璧に掴んでいる証拠。

そして、やっとのことで今回の特集を書く動機になった映画について。

遡ること5年前の2012年、WOWOWで放送されたパニック映画の古典的作品『エアポート’75』を観直したときのことです。

特に主人公の女性主任客室乗務員を演じるカレン・ブラックが大変素晴らしく、危機に対して敢然と立ち向かう女性という近代的なキャラの嚆矢として再評価する必要があります。

(以前のブログ【男たち、野獣の輝き】2012年8月12日「エアポート’75」を観ました」より引用)

この「立ち向かう女性」というキャラですが、筆者の乏しい知識を確認しても、それ以前、つまり1960年代以前には殆どいなかったのではないかと思うのです。「女だてらに頑張る」とか「跳ねっ返り娘」的な記号はあったとしても。

小型飛行機と衝突してコクピットが半壊し、副操縦士も航空機関士も死に、機長も瀕死の重傷になるという状況だけでも大したアイデアですが、やはりこの作品が他のディザスター映画と一線を画している要因は、今回のテーマである「泣き叫ぶのを止めて立ち向かうことを選んだヒロイン」の創造ではないでしょうか。

ゴリラのような雰囲気のカレン・ブラック。そのゴリ味はこのあとリンダ・ハミルトンへと継承される。まさに戦う女性。

従来のプロットなら、「たまたま乗っていた元軍人のパイロットが、戦争の時のトラウマを克服しながらアドバイスをする」という、まんま『フライングハイ』みたいなプロットを用意するはずなんですよ。なのに、この作品は女性乗務員が「唯一残った責任者」として職務をまっとうするのが尊い。まさに『マッドマックス2』のマックスの台詞じゃないですが「やれるのは俺しかいない」(柴田恭兵声)スピリット。加えて仲間のブロンドCAが泣き言を並べたり、無線は途中で通じなくなったり、その状態で「手動」でジャンボの高度を上げたりと、その見事な八方塞がり感のハラハラさ。

結果的に、「穴から入ってきた恋人」という身もふたもないようなメタファーも合わせて、男の手を借りて最後のピンチを脱してしまうプロットはやはり時代を感じざるを得ませんが、それでも、物語が動き始めてからの中心人物としてヒロインを持ってきたのは先進的だと思います。しかも、生き残った機長が殆ど助言らしい助言も助けてもくれないという、サディスティックな感覚。操縦手順を無線誘導でステップ・バイ・ステップでクリアしていくあたりの粘着質な緊張感も相まって、ディザスター映画としても非常にクオリティの高い作品でもあります。

というわけで、本来であればホラー映画の中で成長し続けてきた「泣き叫ぶヒロイン」が、この映画をキッカケとした「戦うヒロイン」像へと結びつく過程が朧気ながら見えてきたように思います。

つまり、『フォースの覚醒』のレイも、『羊たちの沈黙』のクラリスも、『ズートピア』のジュディも、『エイリアン』のリプリーも、ひいては21世紀の映画すべてが、このカレン・ブラック様の活躍無くしては成立しなかった。と断言します。

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